この記事は、ブログ制作者が、以前に同じURLで開設していた別のブログの記事の一つです。
他の記事は全て削除したのですが、この記事はアクセス数がまずまずあるために、削除しきれずに残してあるものです。
アクセス数を見る限り、接続詞の使い分けで悩んでいる方が相当数いらっしゃることが予想できます。
そこで、新しいブログを開設するにあたり、「戦略の接続詞」として様々な接続詞の使用法を紹介していきたいと考えています。
本記事は、基本的には法律論文を作成する際の注意点という狭いテーマで書いたものです。
そこで、新しいブログのために、本記事の内容を部分的に踏襲しつつ汎用性を持たせた記事を作成しました。
検索でこの記事にたどり着かれた方には、新記事である「『しかし』と『しかしながら』の違いは? 戦略の接続詞(2)」をご覧になることを強くお薦めします。
そのほかにも「『したがって』と『よって』の違いは?」等の記事も順次公開していますので、併せてご一読頂ければ幸いです。 ⇨ 「戦略の接続詞」一覧ページ
文章の「肝」である接続詞
接続詞は文章の「肝」である。
できるならスマートな文章を書きたいではないか。
そこで、今後、気が向いた時に接続詞について考えていきたい。
今回は「しかし」に代表される逆接の接続詞である。
かなり長い記事なので、まず見出しをざっと眺めてみて、気になった部分だけ読まれることをおススメする。その上で、他の部分も面白そうだとか、役に立ちそうだとか思われたら、全文をお読み下されば幸甚である。
法律論文に逆接表現は必要か
逆接は、その名の通り、それまでの内容とは逆の内容が述べられることを意味する。素直な流れである順接の文章と比べて、逆接表現が使われた文章では読み手の負担が大きくなる。だとすれば、逆接表現はあまり使いたくない気もする。
しかし、なかなかそういうわけにはいかない。
例えば、いわゆる論証問題に関しては、逆接表現が必須といっても過言ではない。複数の説が存在する事項の理解を示すのが論証問題だが、結論として採用しない説にも言及するのが普通だから、自然な流れで書けば逆接表現が使われることになる。工夫によっては、逆接表現を避けることも可能だが、よほど修辞に優れていない限り、悲惨な文章になってしまうだろう。
弁理士の論文試験では趣旨を問われることが少なくないが、論証問題と同様に考えてよい。「一般論(従来の規定) → しかし → そこで」という流れで書けばきれいに収まるのに、それを崩してもあまりよい結果にはならないだろう。
このように、無理して逆接表現の使用を制限すれば、かえって悪影響が生じることになりそうである。
だから、法律論文でも気兼ねなく逆接表現を使えばよい。
とはいえ、逆接表現が多用される論文は決して褒められたものではない。答案構成を疎かにし、行き当たりばったりで書かれた論文が、こうなりがちである。方向が定まらず、フラフラと千鳥足で進むような文章は読むに堪えない。当然、合格点が得られるはずもない。
また、たった一つの逆接表現が読み手の心証を著しく害する場合があることにも留意しなければならない。それは、急な路線変更がされている文章である。
例えば、ある効果をみたす方向で書き進めてきたにもかかわらず、書いている途中で要件の一つを充足しないことに気がついたため、「しかし」で話を逆転させている論文が該当する。書き手にしてみれば、軌道修正して丸く収めたつもりかもしれないが、読み手からすれば「それまでの記載は一体何だったのか?」という印象しかない。
これも基本的には答案構成の甘さに起因するのだが、人間なので見落とすこともあるだろう。現実にそのような事態に陥った場合には、「しかし」で誤魔化そうとするよりも、訂正して書き直した方がはるかにましだ。
絶対にしてはいけない「ただし」との混同
さて、本題の接続詞である。
まず、注意点から始めよう。
逆接の表現を使うべき場面で「ただし」を使う人が時々いるが、これは御法度である。
「ただし」は、例外を表す接続詞であり、逆接の接続詞ではない。
ある事項について述べた後で、例外的にそこから除外されるものがあるときに使われるのが「ただし」である。条文の「ただし書き」を見ればよくわかる。例えば特許法3条1項1号の「期間の初日は、算入しない。ただし、その期間が午前零時から始まるときは、この限りでない。」という規定は、「期間の初日は、算入しない」という原則があるが、「その期間が午前零時から始まるとき」は例外として除かれるということである。
「Aである。しかし、Bである。」という場合、基本的に重点はBにある。そして、稀にAとBが等価の場合もある。つまり、A≦Bという関係が成り立っているわけである。
一方、「Aである。ただし、Bである。」という場合は、重点はAにあり、Bはそれに付随する形となっており、A>Bという関係が成立している。
法律論文では、この違いを把握して「しかし」と「ただし」をしっかり使い分ける必要がある。
一つ付け加えておくと、ストーリー物の場合、両者の境界はかなり曖昧になる。
・桃太郎は鬼を退治した。しかし、桃太郎も無傷では済まなかった。
・桃太郎は鬼を退治した。ただし、桃太郎も無傷では済まなかった。
どちらもそれほど違和感を覚えることなく読むことができるだろう。
日常会話で使われる場合も「しかし」と「ただし」はそれほど厳密に区別されていないように思う。
使っていい逆接の接続詞
主だった逆接の接続詞を挙げると、「しかし」「しかしながら」「だが」「だけど」「けれども」「でも」「されど」「しかれども」「しかるに」といったところだろうか。
このうち「しかし」と「しかしながら」については、論文試験で用いても全く問題ない。問題となるのは、その他の接続詞である。「しかし」「しかしながら」は既に使ってしまったので、他の接続詞を使いたいというときもあるだろう。何かよいものはあるだろうか。
まず「だけど」「けれども」「でも」はくだけた感じがする言葉であり、論文には相応しくない。
次に「されど」「しかれども」であるが、これらは堅苦しいし、何より時代掛かっており、かえって真剣味に欠ける印象を与える。
「しかるに」は使えそうな気もするが、逆接以外の使い方をされることもあり(むしろ、その方が多い)、意味内容が曖昧であるため、避けるべきだろう。
辛うじて「だが」が使っても許容されるように思える。しかし、人によっては好ましくないと感じるような気もする。また、細かい説明は省くが「しかし」に比べて「だが」の方が使用可能場面が少しだけ限定されるように思う。そうなると、「だが」も積極的に用いるのは躊躇われるのである。
こうしてみると、結局、逆接の接続詞として気兼ねなく論文で使用できるのは「しかし」と「しかしながら」に限られることになる。
ただし、後述する接続助詞の「が」「ものの」を「しかし」の代わりに使えることも多いで、そう悲観したものではない。
「しかし」と「しかしながら」の使い分け
「しかし」と「しかしながら」は使い分ける必要があるだろうか。
「しかし」は「しかしながら」が略された言葉であると考えられており、辞書的な意味では、両語に差はないともいえる。
だが、事はそれほど単純ではない。
両語から受ける印象はかなり異なり、その印象の違いが用法に影響を与えるのである。
「しかしながら」は「しかし」より大げさな印象を与える。このことから「しかしながら」の方が「しかし」よりも逆接の性質を強く有することになる。
「しかしながら、原審の上記判断は是認することができない」というのは、最高裁が頻繁に用いる言い回しである。原審の判示内容を否定するときに使われる言い回しなのだが、「しかしながら」の代わりに「しかし」が用いられとしたら、これほど力強い印象を与えないだろう。
このような性質上、「しかしながら」は、反対の立場の意見を真正面から受け止めてから、それを引っくり返したい時に用いるのが最適である。だから「しかしながら」は、一つの問題で何度も使う言葉ではないし、細々した部分で使うのにも相応しくない。
一方、「しかし」は「しかしながら」ほど強い印象は与えない。その分「しかしながら」よりも使える範囲は広いし、自由度も高い。
以上より、「しかし」と「しかしながら」は次のように使い分けるのがよいだろう。
「しかし」は、「しかしながら」以外の箇所で逆接表現をするときに用いる。
接続助詞「が」「ものの」
「しかし」「しかしながら」を用いずに、逆説を表現する最も一般的な方法は、接続助詞の「が」や「ものの」を使用するというものである。
「が」「ものの」は形式ばった文章でもそうでない文章でも広く使われる便利な言葉であり、もちろん法律論文で使うのに何の支障もない。
とはいえ「が」「ものの」があらゆる場面で「しかし」「しかしながら」の代わりとなるわけではない点には留意する必要がある。
接続助詞という性質上、引っくり返す対象は前の文節に限られ、長い内容を引っくり返す逆接表現としては使いづらい。
また、後で読み返してみると、一文の中で接続助詞の「が」を二度三度使ってしまっていたということもありがちなので気をつけたい。これは、適度な長さで文章を区切ることで簡単に防止できる。
ところで、「接続助詞の「が」はいろいろな意味を持つ曖昧な言葉だから、文章の中では決して使わない」という人に会ったことがある。
辞書を引いて頂ければおわかりになるとおり、たしかに「が」は逆接以外にも様々な使われ方をする多義語である。だから「が」を使わないというポリシーは理に適っていると思う。しかし、その一方で、そこまで厳格にする必要はないとも感じる。論理がしっかりしていることが要求される学術論文・専門書・判決文等でも「が」は頻繁に用いられるし、何より読む側はそんなことを意識せず適切な意味で受け取ってくれるのだから。
もし「が」を使うべからずという主張に賛同する方がいらっしゃるなら、意味が限定される「ものの」を使えばよいだろう。
「たしかに」「もちろん」「なるほど」
「たしかに」「もちろん」「なるほど」は、後ろに逆接表現を伴うことで、その逆接表現を強調する機能を持つ。これらの言葉を上手く使えるようになれば、こなれた文章となり、表現力は確実に上昇する。
「たしかに」「もちろん」「なるほど」の3語は、ニュアンスが微妙に異なり、共通して使える場合もあれば、そうでない場合もある。
それを説明するためにはかなりの文字数が必要となるため、ここでは省略させて頂くが、3つの言葉を入れてみて、一番しっくりくるものを選べばよいだろう。
こういった言葉は使い慣れていないと、なかなかすっと出てこない。上手く使いこなせるようになりたいという方は、ちょっと無理してでも普段から意識的に使って頂きたい。
「とはいえ」「もっとも」
「とはいえ」「もっとも」は、辞書では「ただし」と同意であるといった書き方がされているが、実際にはニュアンスが異なるように思う。
「ただし」が原則に対する例外を挙げるときに使われることが多いのに対して、「とはいえ」「もっとも」は大袈裟に言ってしまったことを修正するという意味合いが強い。
客観的事実として原則・例外の関係があるときは「ただし」がしっくりくるし、意識的に実際よりも広い範囲に言及してから、それを正しい範囲に戻す場合には「とはいえ」「もっとも」がぴったりだ。
だから「とはいえ」「もっとも」は意識的・戦略的に使うことができる。除外した部分を強調したいときや、その部分について説明を加えたいときに使うと効果的なのである。
例えば「甲は、○○の場合を除いて、××をすることができる。」という文を「甲は、××をすることができる。もっとも、○○の場合は△△なので、その限りではない。」とすれば、○○の部分がかなり引き立ってくる。
また、「とはいえ」「もっとも」は「ただし」ほど前後の主従関係が明確でない。先に書いたように「Aである。ただし、Bである。」という場合は、A>Bという関係が成立している。この関係は「Aである。もっとも(とはいえ)、Bである。」のときも同様である。しかし、「ただし」の場合は、AとBの重みにかなりの差があるのに対して、「とはいえ」「もっとも」の場合は、それほどの差はない。そういう意味では、「とはいえ」「もっとも」は「しかし」と「ただし」の中間的な位置にある接続語であると言えるかもしれない。
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