2.水野錬太郎と旧著作権法
明治32年の著作権法は、昭和45年(1970年)の全面改正まで七十余年という長寿の法律となった。ベルヌ条約の要求水準に合わせたために先進的な内容となったこともあるが、その制定の中心となった水野錬太郎が著作権思想をよく理解していたため、制定当初からかなり洗練された内容だったという点も忘れてはならない。
水野錬太郎は、明治期を代表する官僚・政治家の一人であり、朝鮮総督府政務総監、内務大臣、文部大臣等を歴任した人物である。
ベルヌ条約への加盟や著作権法の整備が問題になっていた当時、若き水野は内務省参事官の任にあった。
版権法を含む出版に関する事項は内務省の管轄であったため、著作権法整備の担当者として水野が選ばれた。
水野は、明治30年(1897年)の末から半年余りの間、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、イタリア 、スイスに外遊し、諸国の著作権制度を学んだ。
帰国後、赤司鷹一郎と小倉正恒という有能な補助者とともに、箱根の温泉宿に籠って、ドイツとベルギーのものを参考にして著作権法案を起草する。
それが、明治32年の著作権法として結実することになるのである。
水野は相当熱心に著作権について学んだようで、スイス滞在時には知能権国際連盟中央事務局に通いつめて、その思想を吸収したという。
結果として、日本における第一人者となり、晩年に至るまで著作権制度に対する影響を持っていた。
ちなみに「版権」から改められた「著作権」の語について、水野は自分が創案したものだと吹聴していたこともあって、長くそのように信じられてきたが、近年の研究により、それ以前に使われた語を水野が拝借したという説が有力となっている。
水野らの起草による明治32年の著作権法の主な特徴は次のようなものであった。
1.無方式主義の採用
版権制度では保護を受けるためには登録が必要であったが、本法により何の手続きをしなくても、著作物の創作と同時に著作権が発生することとなった。
2.広範な保護範囲
版権制度では保護されていなかった絵画や彫刻等が対象となるとともに、人格的な利益の保護も拡張された。
3.外国の著作者の保護
版権制度では外国の著作者の著作物は保護されておらず、その複製や翻訳は自由であったが、本法により外国の著作者の著作物も保護対象となった。
無方式主義は近現代の著作権制度の基盤ともいうべき根本的な制度であり、ベルヌ条約の大原則であるため、世界各国で採用されている。
しかし、保護に値する創作が、ごく一部の人によってなされていた時代には適切な制度であった無方式主義も、情報通信技術の発展等により、誰もがそれなりの作品を創作し、世の中に発表できる現在にあっては、本当に適切な制度であるか疑う必要があるだろう。
だが、これについては、いったん置いておいて、後ほど触れることにしよう。
明治32年の著作権法がどれだけ優秀であったかは、時を同じくして制定された産業財産権法(特許法・実用新案法・意匠法・商標法(実用新案法は明治38年制定))が、内容が不十分であったため、制定からわずか10年後の明治42年(1909年)には全面改正せざるを得なかったことと比較するとよくわかる。
とはいえ、さすがに70年の間全くその姿を変えないという訳にはいかなかった。
技術の進歩あれば、社会情勢の変化もあるし、さらにはベルヌ条約の改正に伴って補充や変更しなければならない規定もあったからだ。
それでも、この明治32年の著作権法が実質的に改正されたのは、わずか5回であった。
平均すると十数年に一度の改正なのだから、現代の著作権法改正の頻度からは到底考えられないスローペースである。
5回の改正内容を簡単にまとめておく。
明治43年(1910年)改正
ベルヌ条約ベルリン改正に対応。
大正9年(1920年)改正
「桃中軒雲右衛門事件」等を機に、演奏・歌唱が保護対象に加えられる等の改正。
昭和6年(1931年)改正
ベルヌ条約ローマ改正に対応。
昭和9年(1934年)改正
社会状況の変化に対応しきれていなかった部分の是正。
出版権の創設等、最も大きな変更があった改正。
昭和33年(1958年)改正
偽作罪(現在の著作権侵害罪)の罰則強化
3.桃中軒雲右衛門事件・プラーゲ旋風・ミュージックサプライ事件へ
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