曲折の全面改正
先に昭和37年(1962年)から著作権法全面改正作業が始められたと書いた。しかし、これは実際に改正に結びついたという意味での改正作業であり、それ以前にも改正に向けての動きは少なからず存在した。
戦前においてさえ、著作権法が時代遅れのものになっているという認識は相当に強かったようだ。
しかし、大戦を挟んだ不穏な空気の中では、著作権法の改正は喫緊の課題ということにはならず、具体的な作業に入るまでには至らなかった。
大戦が終わり、占領下の昭和25(1950)年、ようやく最初の改正に向けての本格的な動きがあった。
「著作権法改正案起草審議会」による改正作業である。
著作権法改正案起草審議会は、ベルヌ条約が昭和23年(1948年)にブラッセルで改正されたことを受けて、それに適合する著作権法案の作成をするようGHQから指示されたことを契機に開催されたものである。
GHQの覚書(メモランダム)では、その覚書を受領した日から45日以内に、改正案を提出するよう指示されていたが、必ずしも早急な結論を求めたものではなく、議論がある程度長期に及ぶことをGHQも容認していたようである。
昭和25年(1950年)10月24日の第一回総会から精力的に会議が開催されたが、昭和26年(1951年)12月18日の第16回特別委員会(新聞出版)の会議を最後に活動は終了し、結局、改正案がまとめられることはなかった。
同年9月8日に平和条約(サンフランシスコ平和条約)が調印されたため(発効は昭和27年(1952年)4月28日)、GHQの指示に応じる形で性急に著作権法を改正する必要がなくなったからである。
平和条約の発効後、昭和28年(1953年)4月には「著作権制度調査会」が発足し、同年10月6日に第1回総会が開催される。
しかし、これも改正案を提示することなく、昭和30年(1955年)5月24日の第11回総会を最後に活動を終える。
万国著作権条約の批准により、その対応が優先課題とされたためである。
著作権に関する世界的な条約といえば、まずベルヌ条約が思い浮かぶが、それ以外にも万国著作権法条約がある。
ベルヌ条約と比較して、いまひとつ存在感に欠ける万国著作権条約であるが、その内容を簡単に紹介したい。
万国著作権条約は、ユネスコの主導により、昭和27年(1952年)9月6日にジュネーブで創設、昭和30年(1955年)9月16日に発効したが、実際にはアメリカの力によって作られた条約である。
ゆえにアメリカにとってかなり有益な内容となっている。
まず、当時のアメリカは様々な国と著作権に関する条約を個別的に締結していたため、適用関係が複雑になってしまって混乱状態にあったが、この条約により、混乱を解消できるというメリットがあった。
そして、さらに重要な点として、ベルヌ条約に加盟しなくても、ベルヌ条約加盟各国と相互的に著作権を保護できるという利便性があったのである。
アメリカや南米諸国、ソ連等は、方式主義を採用しており、著作権が保護されるためには、登録や納本あるいは著作権表示等の方式的な要件を満たす必要があった。
そのため、無方式主義を大前提とするベルヌ条約に加盟するためには大々的な制度改正をする必要があった。
無方式主義から方式主義へ、また、その逆の方式主義から無方式主義へという転換は、著作権制度の根幹に関わるものであるためいずれも容易ではない。
であるならば、お互いの制度を維持したまま、相互間での保護を可能にする条約(架橋条約)を作ればいい、ということでできたのが万国著作権条約なのである。
唐突だが、中山名誉教授の「著作権法」の奥付を見て頂きたい。
その下の方に「©2014,Nobuhiro NAKAYAMA」という表記がある。
これは、万国著作権条約3条1で、(細かい要件は省くが)「著作権者の名及び最初の発行の年とともに©の記号」が表示されていれば、この条約を締結している他の国が方式主義を採用していても、その方式を必要とすることなく、その国の著作権による保護を受けられる旨が規定されていることに由来する。
とはいえ、方式主義を採用していた国は、徐々に無方式主義に転換してベルヌ条約に加盟し、肝心のアメリカも1988年遂にベルヌ条約に加盟し、現在では万国著作権条約の存在意義はほぼ消滅している(ベルヌ条約と万国著作権条約の両方が適用される場合には、前者が優先適用される(万国著作権条約17条)。)。
日本との関係でいえば、現在、万国著作権法条約の適用があるのはカンボジアだけである。
ただし、著作権情報センターなどによるカンボジア王国著作権法の訳文を見ると、同国は無方式主義を採用しており、©マークがなくても法制上はカンボジアの著作権法による保護を受けられると考えられる。
ということは、©マークは、少くとも日本では、既に法的な存在価値を失っており、現在もそれが付されるのは、伝統や慣習に過ぎないということになる。
今となっては、日本にとって特にデメリットがあるように思えない万国著作権条約だが、その締結に際しては、世論では反対の声の方が大きかった。
誤った形で条約の内容が伝わったり、翻訳権に関する複雑な問題があったり、政府やアメリカに対する不信があったりと、様々な要因が考えられるが、ともかくも昭和31年(1956年)1月28日にユネスコ事務局に批准書を寄託し、同年4月28日に日本について発効した。
それに対応して「万国著作権条約の実施に伴う著作権法の特例に関する法律」が制定され、条約の発効と同日から施行されている。
次に、昭和37年(1962年)から「著作権制度審議会」により改正作業が着手された。
この取り組みは、昭和45年(1970)年の全面改正に結実することになる。
これが現在施行されている著作権法である。
文部大臣から著作権制度審議会に「著作権法の改正ならびに実演家、レコード製作者および放送事業者の保護(いわゆる隣接権)の制度に関し基礎となる重要事項について」と題する諮問がなされたのが、昭和37年5月16日。
新しい(現行の)著作権法の公布が昭和45年5月6日、施行が昭和46年1月1日であるから、文部大臣の諮問から公布・施行まで、ほぼ8年の歳月を要していることになる。
その間の動きについて縷々説明することはできないので、重要事項のみ時系列にまとめる。
昭和37年5月16日 諮問
昭和38年11月4日 各小委員会審議状況について中間報告
昭和40年5月21日 各小委員会審議結果報告書
昭和41年4月20日 著作権制度審議会答申
7月15日 著作権制度審議会答申説明書
昭和41年10月22日 著作権及び隣接権に関する法律草案(文部省文化局試案)
昭和42年8月 第2次試案
昭和43年1月 第3次試案
3月 第4次試案
同月 第5次試案
4月2日 著作権法案の第58回国会提出を閣議決定(国会提出に至らず)
昭和44年4月 著作権法案第61回国会提出
8月 同法案衆議院において審議未了で廃案
昭和45年2月 著作権法案第63回国会再提出
4月10日 衆議院本会議で可決
4月28日 参議院本会議で可決により著作権法成立
5月6日 著作権法公布(昭和45年法律第48号)
昭和46年1月1日 施行
どのような事情があったのだろうか。
朝日新聞の昭和43年5月25日朝刊に、関係筋の話として「この法案の提出には野党も反対していないから、衆院文教委で教育三法案より先に審議にとりかかることになりそうだった。その結果、3法案の審議に入るのが遅くなるおそれがあるとみて提出を見合わせているうちに時機を失った」(『著作権法改正案 提出、結局見送り』)とある。
これに対し、朝日は裏を読んで「同改正案が50日間以上もタナ上げされたあげく提出見送りになった原因は、実際には、同法改正について激しい反対運動を続けている民間放送やバー、キャバレーなど環境衛生同業組合関係の団体の意向を受けた自民党筋が、参院選への思惑もあって提出見送りを働きかけた」という推測を立てている。
真相を知る由はないが、同じく朝日新聞の同月29日夕刊には、その日午前に開催された佐藤栄作首相招待の懇談会(三遊亭円生師匠ら芸術・芸能関係者が参加)で、著作権法案が未提出になったことに対して、参加者の厳しい声が上がると、首相が「次の国会といっても臨時国会は無理だから、通常国会に出すことにしたい。反対の動きもあるようだが、カネに弱い政治家ばかりではないので、ぜひ成立させたい」と約束したという記事がある(『著作権法案は必ず 首相せめられて公約』)。
このように、各所からの要望・要求により、新しい著作権法の制定には、政治的にかなりの苦労したようである。
もちろん、その前段階においても「保護を受ける芸術家など権利者側と、著作権料を支払う側の各種業界の利害対立が激しく、改正作業にあたった文部省もその調整に苦しめられた」(朝日新聞の昭和43年5月25日朝刊前掲記事)。
その後の改正関連の新聞記事を追うと、新著作権法に対する各方面からの意見表明は相当の数にのぼる。
当時かなり活発に著作権法に関する議論が行われており、行政・立法がその対応に苦慮しているという社会情勢が見えてくるのである。
著作権の歴史を追う際の基礎資料となる「著作権法百年史」(著作権情報センター,2004年)という大部の書籍がある。
この本の中で、全面改正の経緯についてかなり詳細に記述されているが、改正をめぐる巷間の動きに関する記載には乏しい。
それだけを見ると、あたかも改正プロセスはかなり順調に進んだようにも思える。(当該箇所は、元文部官僚の作花文雄教授が担当したという事情もあって、文部省が相当に手間取ったという事情は書きづらかったのかもしれない。)
しかし、近年の著作権法改正の様子を見ると、大きな改正でない場合ですら、文化庁は各所からの意見の調整に苦しんでいる。全部改正がそうすんなり進むはずはないのだ。
改正までに8年もの歳月を要したのは、多岐にわたる論点の存在やそれまで不十分であった条約への対応といった面が大きな要因であったことには違いない。
しかし、利害関係各所との対応に相当苦労したという事実も見逃すことができない。
それでも、紆余曲折の甲斐あってか、制定された新著作権法は、旧著作権法と同様、まずまず洗練されたものとなった。
5.新たな著作権法へ
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