「しかし」と「しかしながら」の違いは? 戦略の接続詞(2)

「戦略の接続詞」では、文章作成における効果的な接続詞の使い方について考えます。

主なターゲットとして、論理性が要求される文章、例えば論文やオフィシャルな案内文等を想定していますが、その他の種類の文章(小説、エッセイ、レポート、社内文書等)にもきっと役立つ内容だと思いますので、是非ご一読下さい。



今回は「しかし」と「しかしながら」を中心に見ていきます。


取り扱う主な接続語

しかし・しかしながら・が・ものの・だが・ところが・たしかに・もちろん・なるほど


逆説の接続詞
「しかし」や「しかしながら」のように、前後の文章で逆の内容を述べることを示す接続詞は、一般に「逆説の接続詞」と呼ばれます。

逆説の表現は、受け手に負担を強いるといわれています。

話が同じ方向に進行・展開していくときとは異なり、逆説表現があらわれると、受け手としては、話の方向がどうして変わるのか、どのような立場・考え方から述べられているものなのか等といった判断をしなければならないからです。

もちろん、私達は言葉というものに慣れ親しんでいて、日常的に逆説表現に接していますので、通常、何の苦労も感じずに逆説表現が使われる理由を瞬時に判断して、すんなりと受け入れることができます。

しかし、論理性の強い文章や難解な文章に向き合うとき、日常会話では考えられないほど、逆説表現に悩まされることがあります。時には、どの立場からの考え方を示した文であるのかということを、逐一考えながら読み進まないと迷子になってしまうこともあります。

ですから、私達が伝える側として逆説表現を用いるときには、受け手に余計なストレスを与えないよう、できる限り顧慮したいものです。
特に、接続表現が立て続けに何度もあらわれると、受け手は、その都度判断をしなければならないため、うんざりしてきます。このような千鳥足の文章は、発信する情報・思考を伝え手自身が整理できていない場合に作成されることがほとんどです。
文章の迷いは、すなわち心の迷いなのです。

逆説表現の機能
逆説の語句の具体的な使用法を検討する前に、逆説表現の機能について確認しておきましょう。

逆説表現は、その直接の機能として、その前後で内容が逆になっていることを示すというのは、先に説明したとおりです。

ただし、ここでいいう「逆」とは、数学や論理学のようなきっちりしたものではなく、「方向が一致しない」という程度の意味であり、かなり幅が広いものです。

戦略的な使用という点で注目したいのが、逆説表現には、受け手の思考を一時的に止める、あるいは受け手に判断や思慮を促すという機能・効果があるということです。
このような機能・効果があるため、受け手のストレスとなりかねない反面、うまく利用することができれば、相手を説得するための最上のツールとすることができるのです。

この効果は、どの逆説表現を選ぶかによって、その強さを調整することができますので、場面場面で語句を使い分けることが重要になります。

このことを念頭に置きながら、様々な逆説語句の戦略的使用法を見ていきましょう。

「しかし」と「しかしながら」の違い
「しかし」と「しかしながら」はどのように使い分けることができるでしょうか。

もともと「しかし」は「しかしながら」が略された言葉であると考えられていますので、辞書的な意味では、両語に差はないともいえます。
ですが、両語から受ける印象はかなり異なり、その印象の違いこそが使い分けのポイントとなります。

「しかし」は、逆説表現の中で最も一般的に用いられる語で(かしこまった響きは多少あるものの)会話でも発せられます。

一方「しかしながら」は、「しかし」と比べては圧倒的に使用頻度が低く、日常会話で発せられることがまずない言葉です。
ですから、「しかしながら」という語に、かなり大げさな、そして形式張った印象を受けるのではないでしょうか。
このことから「しかしながら」は「しかし」よりも逆接の効果を強く発揮することになります。

ということは、上の「逆説表現の機能」で説明したことの兼ね合いから、あえて「しかしながら」を選ぶ必要がある場面が浮かび上がってきます。

それは、それまで述べてきた内容を真っ向から否定して、その反対の立場から弁じたい場合です。
「しかしながら」は逆説の効果をもっとも色濃く反映する接続語です。
したがって、「しかしながら」は、それまでの内容に強く反対する場面、あるいは相反する事項を述べる場面で使われるべき語句なのであって、中途半端な方向転換の場面で使われると受け手の違和感を呼び起こし逆効果となってしまいます。
例えば、「しかしながら、原審の上記判断は是認することができない」という最高裁の判決文で頻繁に用いる言い回しがあります。これは、原審の判示内容を否定する際の常套句なのですが、「しかしながら」の代わりに「しかし」が用いられとしたら、これほどきっぱりと強い印象を受けないでしょう。

「しかしながら」は相手の思考の流れを寸断する力も強大で、受け手に「ちょっと待ってよ。ほら、考えてみて。」と訴えかけます。
ですから、それに続くのは、自分が強く主張したい内容でなければ、釣り合いが取れないのです。
これだけ強い語句ですから、「しかしながら」は、頻繁に用いるべき言葉ではありませんし、細々した部分で使うのにも相応しくありません

「しかし」は「しかしながら」ほど強い力は持っていません。
その分「しかし」は、「しかしながら」よりも使える範囲は広く、自由度が高い語句ですし、文中に多くあらわれたとしてもそれほど気になりません

「が」「ものの」
「しかし」や「しかしながら」以外で、逆説を表現する最も一般的な方法は、接続助詞の「が」や「ものの」を使用するものです。

「が」「ものの」の逆説の力は「しかし」と同等か、それよりも少し弱いレベルです。

そして、「が」「ものの」は形式ばった文章でもそうでない文章でも広く使われる便利な言葉です。
とはいえ「が」「ものの」があらゆる場面で「しかし」「しかしながら」の代わりとなるわけではない点には留意が必要です。
接続助詞という性質上、それが受ける対象は前の文節に限られ、長い内容を受ける逆接表現としては使いづらいのです。

複数の文章にまたがる内容に反することを述べたい場合は、やはり「しかし」「しかしながら」を用いるべきでしょう。

自分が書いた文章を後で読み返してみると、一文中に接続助詞の「が」を二度・三度使ってしまっていたという経験があると思います。これこそ千鳥足の文章の代表のようなものですから、受け手に悪印象を与えかねません。自分が一番伝えたいことは、どの部分かということを考えて、しっかり整理された文章に修正しましょう。


ところで、接続助詞の「が」はいろいろな意味を持つ曖昧な言葉だから文章の中では絶対に使わない、という人に会ったことがあります。
たしかに「が」は逆接以外にも様々な使われ方をする多義的な接続助詞です。
ですから「が」を使わないというポリシーは理に適っているといえます。

しかし、その一方で、そこまで厳格にする必要はないとも感じます。確かな論理性が要求される学術論文・専門書・判決文等でも「が」は頻繁に用いられますし、何より読む側はそんなことは意識せず、適切な意味で受け取ってくれることがほとんどだからです。

「が」がどのように受け取られるか不安に感じるときはたしかに存在します。そのようなときは、意味内容が限定される「ものの」を使うことを検討してみて下さい。
ただし、逆説的な場面でも「ものの」と「が」使われる範囲は微妙に異なっていますので、その点には注意が必要です。
次の項目の中で具体的に説明します。

「だが」「ところが」等
他の接続表現にはどのようなものがあるでしょうか。

「だが」「ところが」「だけど」「けれども」「でも」「されど」「しかれども」「しかるに」といったところです。

しかし、これらの語は、ある程度フォーマルさが必要な文章では使いづらいため、結局、逆説表現としては「しかし」や「が」ばかりになってしまう、そんな悩みを多くの方が抱えています。

簡単に見てみましょう。

まず「だけど」「けれども」「でも」は、相当にくだけた感じがする言葉であり、小説やエッセイ等では使うことができても、論文等ではさすがに無理です。

次に「されど」「しかれども」ですが、これらは堅苦しいを通り越して、時代掛かった印象を与え、かえって真剣味に欠けるように見えます。
「おいおい、時代じゃないんだから」という感じです。

それらと比べると、「しかるに」はまだ使えそうな気もしますが、この語句は逆接以外の使い方をされることも多く、論証や主張を正確に伝えるにはあまり向いていないと思います。


辛うじて「だが」と「ところが」が使えそうです。

「だが」は語調がとても強いので、どこか無作法な印象を受けます。
それだけに、多用できる語句ではありませんが、その主張は到底受け入れられないという心情を仄めかしたい場面等では有効かもしれません。

「ところが」は、「ところがどっこい」や「ところがどうでしょう」という慣用表現があることからもわかるように、話し手や書き手が想定していたこととは異なる事態が起きた意外性を伝える意味合いが強い語句です。
このような特殊な意味を持つため、「ところが」は、通用性には乏しいです。

次の例を見て下さい。

A.甲は、強盗するつもりでコンビニに入った。ところが、甲はタバコを買って店を出てしまった。
B.この説は正しいと広く信じられている。ところが、私はこの説に反対である。

どちらも言いたいことは伝わりますし、誤った用法とまではいえないと思います。でも、Bの表現に少し引っかかりを感じないでしょうか。

Bでは「ところが」よりも「しかし」の方がしっくりくるのです。
これから自分の意見を述べるところなのに、自分に想定外の事項が発生したという含みを持つ「ところが」という接続詞が用いられることに違和感を覚えるのでしょう。

しかし、面白いことに、Bの「ところが」には、違和感を覚えるながらも、同時に何か魅力的なものを感じるのは私だけでしょうか。
「ん?」と考えさせるギリギリの引っかり具合なのかもしれません。
言葉というのは本当に難しいですね。

とはいえ、正確さが要求される文章では、Bのような場合は「しかし」を用いた方がやはり無難といえます。


さて、ここで例文を少し変えてみましょう。

A.甲は、強盗するつもりでコンビニに入ったものの、タバコを買って店を出てしまった。
B.この説は正しいと広く信じられているものの、私はこの説に反対である。

ここでも、Bの方に小さな違和感があるような気がします。

「ものの」は、客観的な事実や自分が関与しない事項で逆説表現を用いたいときに向いている語句で、自分の立場を表明するBのような場合には「が」の方が適当でしょう。

もっとも、このレベルになると、個人の言語感覚によって、どの接続表現が一番馴染むかは人それぞれかもしれません。

「たしかに」「もちろん」「なるほど」
「たしかに」「もちろん」「なるほど」は、後ろに逆接表現を伴うことで、その逆接表現を強調する機能を持ちます。これらの言葉を上手く使えるようになれば、こなれた文章となり、表現力は確実に上昇します。

多くの論文では、直接的な逆説語句である「しかし」や「しかしながら」だけでなく、「たしかに」や「もちろん」を散りばめることによって、意識的か無意識的かはわかりませんが、文章表現に工夫がされている様子が伺えます。

これら「たしかに」「もちろん」「なるほど」の3語は、微妙にニュアンスが異なっていて、共通して使える場合もあれば、そうでない場合もあります。

詳しい説明は別の記事で紹介したいと思いますが、一つ言えることは、こういった語句は使い慣れていないと、なかなか使えないものです。
日頃から、どういった文脈でこれらの語句が用いられているか気にかけておくとよいでしょう。

「ただし」「もっとも」「とはいえ」等
他にも逆説語句に近いものとして「ただし」「もっとも」「とはいえ」等がありますが、意味内容を分析してみると、実際には逆説とは違った表現であることがわかります。
ですから、これらについては、改めて次回の「戦略の接続詞」で解説したいと思います。

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