3.桃中軒雲右衛門事件・プラーゲ旋風・ミュージックサプライ事件
旧著作権法の制定から廃止まで約70年。これだけの長期間に亘ると、さすがに様々な事件があった。
その中でも、桃中軒雲右衛門事件、プラーゲ旋風、ミュージック・サプライ事件の3つの出来事は、その後の著作権法制に重大な影響を与えたばかりか、世間一般でも大きな注目を浴びる大事件だった。
✦ 桃中軒雲右衛門事件
桃中軒雲右衛門は「とうちゅうけんくもえもん」と読む。
明治から大正にかけての浪花節界の大スターであったが、浪花節が人気芸能とはいえない現在、その方面から彼の名を聞くことはあまりないだろう。
しかし、大学の法学部で学んだ方なら、この名前に聞き覚えがあるはず。
これからお話する「桃中軒雲右衛門事件」が、あまりにも有名だからである。
明治45年(1912年)5月19日、雲右衛門の浪花節「赤垣源蔵(徳利の別)」「南部坂後室雪の別」等のレコードが三光堂より発売された。三光堂の実質的なオーナーはドイツ人貿易商のリチャード・ワダマン (Richard Werdermann、「リチャード・ワダマン」は当時の裁判資料での表記。現在では「リチャード・ヴェルダーマン」や「リヒァルド・ウェルデルマン」ともされる。ドイツ人であることを考えれば「リヒャルト・ヴェルダーマン」とするのが標準的な表記であるはずだが、どの資料も中途半端に英語発音が混在してしまっており、調べたかぎりでは「リヒャルト・ヴェルダーマン」と表記するものは見当たらなかった。)であり、雲右衛門に支払った額は1万5千円とも2万円とも伝えられるが、現代の貨幣価値では億単位になるであろう破格のものであった。
東京音符製造商会は、この三光堂のレコードを買って複製版を作成・販売した。
レコードはその溝に音楽を記録する仕組みであり、技術と機械があれば、当時でも比較的容易に複製ができたのである。
これをワダマンが黙って見過ごすはずもなく、著作権侵害を理由として、東京地裁に刑事告訴と差止及び損害賠償請求を行った。
大正元年(1912年)11月11日、東京地裁は、著作権侵害を認めて被告に罰金と損害賠償を命じた。
翌大正2年(1913年)12月9日には、東京控訴院も著作権侵害を認める判決を行った。
これらの判決に賛否両論ある中、大正3年(1914年)7月4日に大審院の判決が行われたのである。
この大審院判決はかなり長文であるが、結論としては、著作権侵害には該当せず、無断複製は正義の観念に反する行為であるものの、それを規制する法律がない以上、原告を敗訴とするというものであった。
こうした判決が出てしまうと、当然、無断複製のレコードが世間に蔓延するようになる。
なにしろ、高額な報酬を支払って他人が吹き込み売り出したレコードを、罰則や賠償を恐れることなく、安くプレスして売り出せるようになったのだから。
さすがに世の中から現状を改めるべしとの声が上がる。
雑誌「蓄音器世界」の発行人である横田昇一やレコード会社の人々は、衆議院議員であった鳩山一郎らを動かし、結果として大正9年の法改正が行われることとなった。
この改正では、著作物の例示(1条)に「演奏」「歌唱」が加えられることにより、浪花節等の実演も著作物に含まれることとなった。
また、32条の3に「音ヲ器械的に複製スルノ用ニ供スル機器ニ他人ノ著作物ヲ写調スル者ハ偽作者ト看做ス」という規定が新設され、レコードの無断複製が著作権侵害となるように改正された。
Wikipediaの「桃中軒雲右衛門」の記事(2018年4月25日閲覧)には「雲右衛門のレコード吹込みに関するトラブル(桃中軒雲右衛門事件)は、明治大正期における著名な著作権訴訟であった。教科書にも必ず掲載されている判例として有名である」とあるが、これは明らかに言葉足らずの記述である。
Wikipediaの書き方だと、著作権法の教科書には「桃中軒雲右衛門事件」が必ず紹介されているとしか読めないが、現在刊行されている著作権法の書籍で「桃中軒雲右衛門事件」に言及されているのは、むしろ少数であり、触れられているとしても、著作権法史の1つのエピソードという扱いである。
判決当時の著作権制度は現在のそれとは大きく異なっており、著作権法的には「桃中軒雲右衛門事件」は既に先例的な価値を失っているのである。
Wikipediaの引用元(安藤和宏「RCLIPコラム『桃中軒雲右衛門の人気ぶり』」)では「民法の不法行為法の教科書に必ず掲載されている裁判例」となっており(「知的財産法の教科書にも取り上げられることが多い」とも書かれているが、こちらは「必ず掲載」などとはされていない。)、Wikipediaの記事が理解不足の状態で書かれているのは明白である。
では、なぜ民法の教科書に「桃中軒雲右衛門事件」が登場するのだろう。
不法行為に基づく損害賠償について規定する民法709条は、従来「故意又ハ過失ニ因リテ他人ノ権利ヲ侵害シタル者ハ之ニ因リテ生シタル損害ヲ賠償スル責ニ任ス」という条文であったが、この事件で大審院は、浪花節の歌唱に著作「権」がない以上、たとえ無断複製が正義の観念に反しているとはいえ、同条の「権利ヲ侵害シタル」に当たらない旨を判示したのだった。
その後、「大学湯事件」(大審院判決大正14年11月28日)で、民法709条による保護は「(所有権や著作権のような)具体的権利」の侵害の場合だけでなく、「法律上保護セラルル一ノ利益」の侵害にも及ぶとして、考え方が改められた。
「大学湯事件」以降、数多くの判例が蓄積され、また学説の深化もあって、現代語化された現在の民法709条では「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」と規定されている。
このような沿革があるため、その発端となった「桃中軒雲右衛門事件」が、民法学においては、今日でも重要な事案の一つとして教科書に掲載されているわけである。
✦ プラーゲ旋風
プラーゲ旋風は、外交官や旧制一高(現・東大教養学部)のドイツ語教師などの経歴を持つウィルヘルム・プラーゲ博士(Dr .Wilhelm Plage。伝統的に「ウィルヘルム」とされるが、現代では「ヴィルヘルム」と表記するのが標準的であろう。)が、欧州諸国の著作権者の代理人として、強硬に著作権を主張したため、権利意識に乏しかった日本社会、特に文化界がパニック状態に陥ったというものである。
プラーゲ旋風は10年にわたって吹き荒れ、様々な事件を生んだ。
当記事でその全容を紹介することは到底不可能なので、一例として、放送(ラジオ放送)界の事件史を下に掲げる(特に記載がないものはプラーゲ博士の動向である。)。
プラーゲ博士は、放送以外にも、演劇や演奏会、出版・翻訳、レコードに対して様々な形で権利を行使していくことになる。
昭和7年7月22日 NHKを訪問し外国音楽の使用料を請求
12月17日 NHKとの契約成立
昭和8年4月28日 NHKに使用料の値上げを要求するも、NHKは拒否。
(これにより、昭和8年8月1日〜昭和9年7月12日までNHKでは外国曲は放送されなかった。)
6月4日 日本国内の作曲家の団体「大日本作曲家協会」がNHKに対して、会員の著作物の放送を拒絶(協会に支払われた使用料がプラーゲ博士に支払ったものよりもかなり低額だったことに抗議したもの)
7月末 足並みが揃わなかった大日本作曲家協会が妥協し、NHKの主張が通る。
大変な騒動を巻き起こしたプラーゲ旋風であったが、プラーゲ博士の主張自体は、正当な権利に基づいたものであり、強引な部分があったにせよ、強く非難されるような性質のものではない。
根本的な原因は、むしろ、当時の日本人の著作権意識の低さに見出されるべきだろう。
しかし、このプラーゲ旋風によって、著作権の存在が一般市民の間にまで浸透していくことになったのは、怪我の功名といえるかもしれない。
プラーゲ旋風の現実的な意義としては、日本人の手による著作権管理仲介団体が生まれる契機となった(「著作権ニ関する仲介業務ニ関スル法律」の制定と「大日本音楽著作権協会」「大日本文芸著作権保護同盟」の設立)ことが挙げられる。
また、昭和9年の著作権法改正では、プラーゲ旋風対策として、「音ヲ機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器ニ著作物ノ適法ニ写調セラレタルモノヲ興行又ハ放送ノ用ニ供スルコト」は偽作に当たらないとする30条1項8号が設けられた。
しかしながら、この規定は、著作権保護を後退させる内容であり、結果的に負の影響を及ぼすことが多かった。
✦ ミュージック・サプライ事件
昭和31年(1956年)7月札幌市内で「ミュージック・サプライ」というサービスが始まった。
「ミュージック・サプライ」は、レコードで再生した音楽を、有線放送によって、契約したスナックや喫茶店に供給するというサービスであり、今日の定額音楽配信サービスの先駆ともいえるものであった。
レコードを買うよりずっと安く済み、新譜まで配信されるということで、かなり人気があったようだ。
このサービスは無許諾で行われていたため、日本蓄音器レコード協会加盟の日本コロムビアや日本ビクターなどのレコード会社9社が著作権侵害を理由として、差止と損害賠償を求めて提起したのが「ミュージック・サプライ事件」である。
旧著作権法下の事件であり、複数の条文が絡み合った複雑な内容であるため詳述は避けるが、この事件で最大の争点となったのが、「プラーゲ旋風」の最後に紹介した30条1項8号であったのは、何とも興味深い。
言うなれば、プラーゲ旋風の余燼は戦後になっても消えず、それが火種となって「ミュージック・サプライ事件」という形で燃え上がったのである。
裁判は最高裁までもつれ、その判決があったのは、昭和38年(1963年)12月25日のことだった。
最高裁は、その判決で、有線放送も30条1項8号の「興行」に当たるとして、著作権侵害を否定した。
レコードの曲を営利事業として無断で配信することが著作権侵害に該当しないというのは、現在の著作権の常識では信じがたいが、当時の著作権法の条文では、この判決も致し方なかったといえる。
昭和9年改正で規定された30条1項8号は、プラーゲ旋風の対症療法的な規定であり、著作権思想から生まれたものではなかった。
当然、この規定によって不利益を被る作曲家や作詞家らは、制定当時から強い嫌悪を示していた。
有名作詞家らがその撤廃運動を起こしたこともあったほどである。
30条1項8号は、ベルヌ条約のローマ改正条約11条の2に違反しており無効であるとする意見が海外から寄せられるという厄介な問題も宿していた。
この時代には、日本の著作権法は後進国のものというのが海外の評価だったが、その本質的な原因は30条1項8号の存在にあったのだ。
とはいえ、仮に30条1項8号がなかったとしても、著作権法全体に相当ガタがきていたのも事実である。
制定当時は先進的で優秀な著作権法であったが、制定から半世紀を優に過ぎていたため、社会実情との不整合が目立ちはじめていたのである。
そのような理由で、最高裁判決の前年の昭和37年(1962年)から、著作権法の全面改正作業が始まっていたところであった(改正作業では、30条1項8号の取扱いが最重要課題の一つだった。)。
ミュージック・サプライ事件は、前記のとおり、戦前のプラーゲ旋風を原因としていた。
そして、今述べたように、著作権法全面改正の潮流の中で進行していた出来事であった。
そういう意味において、旧著作権法における最後の大きな出来事と呼ぶにふさわしい事件あった。
こうして、次の時代の新しい著作権法が待望される機運が高まっていくが、それは予想をはるかに超える難産となる。
4.曲折の全面改正へ
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